夢のひとかけらについて

ツイッターをはじめてから、夢日記をつけている。

ふだん、私は自分が思うより、思い出せないことが多い。

物忘れが激しいのだ。でも、夢だけは異様に覚えている。

私の夢はいつも、その瞬間私が置かれている状況に対する深層心理、そして直感に基づく予感を鮮明かつ暗喩的に描き出してくれる。

夢だけが、私のシャーマニズムのひとかけらだと思う。

 

昔恋人と別れる前夜に見た夢を、今でも思い出す。

七色に輝く糸で鳳凰が縫い付けられた、私の大事なスカジャンを彼が奪って着て行った。真っ黒に艶めく袖に腕を通して、彼が振り向きざまに笑う。逆光で良く見えないけれど、たしかに笑っている。私の好きだった優しい顔だ。口が大きくて、歯がきれいに見える見事な笑顔だった。この世のものとは思えない彩雲の夕暮れ。まさしくこの世のものではないから当然だ。橙から紺青にかける途方もない色数のグラデーションに、魚眼レンズの中に閉じ込められたような風景だった。地平線が見える。私は置いてけぼりで、その場から一歩も動けない。彼はもう前を向いて、地平線の紺青の方へ去っていく。私は「返して」とも「待って」とも言えない。

彼はもう二度と振り向かないのをわかっていた。彼の背中を、置いてけぼりにされている私の視点で、置いてけぼりにされている私を、神さまからの視点で見た。

現実私はそんなスカジャンは持ってない。でも確かに私の大事なたった一羽の鳥だった。

もう二度とあんなに美しい空は見れないだろう。この世のものでないから、当然なのだ。

 

もちろん、別れは突然ではなかった。不穏な足音を聞きながら一か月は過ごした。

しかし決定的な別れとなった日の前夜に私はその夢をみた。

 

ある人の恋人が不貞を行なった夜、巨大な猫に圧し潰される夢を見たと言う。

ある人が亡くなった夜に、離れて暮らすその妹と母が、その人の夢を見たのだと言う。

 

夢は時に、足元に落ちている不確実な小石を拾い集めて彫刻を作り上げることのよう。自意識の向こう側でかたち作られる彫刻が完成されるのがいつなのかはわからない。ほとんどの場合は、完成されないまま表象として現れるだけだ。

ただ時に完璧なものが出来上がる。積み上げられたその最後のひとかけらを持ってくるのは、自意識でも無意識でもない、私の存在から光の距離ほどに離れた何かなのだと思う。

 

スピリチュアルなものをみようとしすぎると、愚鈍な自分は何もかもがそれに持って行かれてしまうように思われ恐ろしく、たまに当然のように「みえる」人に遭遇すると、生活の中でふいに「みえる」ことのない側の人間で良かったとも思う。そしてこのまま、みえないままで過ごしたい。


それでも、シャーマニズムの存在を信じている。

肉体を持って生まれたからには、誰にでもある原始的な能力だと思う。

直感や予感を鍛錬し磨いた者がシャーマンになったり、あるいは身体表現者になる。

私には、彼らに対するどうしようもないほどの憧れがある。

本能のままに獣のように跳躍し、あるいは石のように静止する肉体を見ると涙が出る。

肉体を持つ観客だけがいない山奥で、山姥が命がけで踊り狂う美しさに似ている。

私はその舞で出来た砂利ほどのひとかけらを、夢として持っている。

 

私には私のことしかわからない。私のことも、よくわからない。

ただ、夢をみることができる。